今日も良いお天気です。今日は着物に羽織物を引っ掛けてお出かけ。寒い。
今日は茶道裏千家淡交会の大会の
代理にて急遽穴埋めの為参加させていただきました。
会場は北浜、美術倶楽部。茶室 松韻亭の見学。
元大阪美術倶楽部取締役の太田眞一氏の「鴻池とその時代の茶の湯」
の講演がありました。
その講演がとても興味深いものでした。
裏千家の茶の湯の関係に触れたところでは、
金沢の前田藩が仙叟を迎え入れ裏千家は大いに発展したとの事から始まり、
玄々斎は骨董界で目利きのようで、道具の好みは価値が高いそうで、立礼を考案されたり、活躍された家元、また、円能斎は学校茶道を広めた家元、淡々斎は淡交会を作られた家元、そして現代に至り、家元はそれぞれに何か業績を積んでこられたという話に触れ、雑談がまたとても興味深く、続きを聞きたくなりました。例えば、
豊臣秀吉の時代に大いに発展した大阪、
大阪城を築城する頃の土地は高台の周りは海に囲まれており、
大阪城は大きな坂の上の高台に築城したので、
まさに、大きな坂の城というわけで・・・「大坂」という地名になったそうです。
西宮には「かぶと山」という山があるのですが、武将は戦争に行く時には
そのかぶと山に先勝祈願の為、兜を埋めてから出陣したとう話やら雑学が面白く。
17世紀頃の北浜の地図を見ながらの講演がまた面白く、
秀吉は安土桃山から、いろんな匠やら職人、商人やらを京都から引き連れてきて
大いに大阪城下は発展、地名すら、京都からみが多いです。
また、北浜の豪商は平野屋、天満屋、鴻池屋、辰巳屋、
加嶋屋(広岡あさ子の保険屋さん)、八木平、(両替商)
現代の三井は昔は呉服屋、住友は銅吹きとして地図に載っていました。
また、現代の大阪の料理屋の吉兆やなだ萬の料理屋の味は
元は北陸、金沢の味からきているとか・・・。
この頃の茶道は表千家が主流だったようです。
私の父方の叔父さんは表千家で茶を習っていたようです。
たぶん、明治、大正辺りから裏千家が頭角を現してきたのでしょうか?
昭和の母の時代は完全に裏千家が流行っており、私も母に連れられお稽古に。
と、雑学の話がとっても頭に残りました。
講演の話に沿いながらの話だったのですが、
今日は大阪、北浜の歴史が現代の事のように感じられた一日でした。
茶道の精神はそれに沿って現代も息づいているようでした。
また「稽古」という字の元の意味は いにしえを考えるという意味らしく
遠い昔の歴史を振り返りながら考え、今に現す事なのだと、
裏千家学園の学園長のおっしゃっていた事も興味深いでした。
ところで、11月20日には、「茶道検定」があります。
問題集の中に、江戸時代の大阪の豪商で、酒造業から金融業などを手広く行い、多くの茶道具を集めた家はどこですか?という問題がありました。
答えは「鴻池・山中家」でした。
この講演を聞いて問題が一つ答えられるようになりました。