7月28日火

今日も猛暑・・・
今日は、堺・利晶の杜にて、野村美術館館長の谷晃さんの講演会があった。

↑ 野村美術館ホームページhttp://nomura-museum.or.jp/
お題は「数寄者と美術館」
数寄者という言葉は平安時代頃より使われていたそうだ。
その頃は和歌を詠う僧侶や貴族がそうだったのだろう。
15世紀には「歌」「連歌師」の事を数寄者と云ったそうだ。
16世紀に茶の湯が確立してきた。
江戸時代に数寄者と云えば、茶の湯をする人の事を言ったそうだ。
茶の湯をするという三原則は・手前ができて、茶室を持って、道具を持っている。
人の事を云う。
近代、明治以降の(1868年以降)の実業家・財界人を
近代数寄者と云うそうだ。
その頃、東の大師会・西の光悦会と云われた数寄者が集まる茶会が開かれた。
近代に入ると、家元制度から離れている数寄者が茶会を開いたりしていた。
近代までは、茶の湯をする人が数寄者であったが、
近代では財界人、実業家が数寄者と呼ばれ、
次々に美術館を作ったという。
美術館の東の根津・五島・畠山・三井・静嘉堂文庫美術館などは
財閥や鉄道、製作所の経営者が。
西の白鶴、藤田、村山、野村、住友、正木、黒川、昭和、石水、本間、出羽桜
も財閥や酒造家、銀行家、新聞社経営などの面々等。
東は、公的な立場を慮る傾向にあるが、
西は、私的所有物的な感覚経営にあるという。
数寄者美術館は経営者の持ち物の他、美術商に買い付けに行かしたりして、
美術品を集めた物を展示しているという。
他、地域の方の寄贈があったりするらしい。
現在の美術館は、美術品を買い付ける、購買力が無くなっているという。
資金問題もあるし、税金問題や株主の意向を聞いていると到底、
コレクションなんぞできる時代ではなくなってきているらしい。
年収が15億円はないとやれないという。
近代の数寄者は日本の美術品の海外への流出の食い止めともなったらしい。
現代の数寄者とはどういう人を云うのだろうか・・・。
私が理解した範囲の話です。間違っていたらごめんなさい。
けれども、勉強になりました。