日曜日

今日は、日曜日。腰が痛い・・・ゴルフのせい?今日は友達が貸してくれた「納棺師日記」を美容院に行って髪の毛を染めている間読んだ。いろいろその本の取り方があるだろうけれど、私は思うに、やっぱり死ぬ間際に光が見えるんだと思う。そして会いたい人が迎えに来てくれるんだと思う・・・誰かわからないけど。友達の中には「死神」が来るという人も居る。死神に「まだ早い」とか言われるらしい。真っ黒で2M位の身長があるらしい。日本は最近死ににくい環境にあるらしいから、案外「死ぬ瞬間を遮らないでホシイ」という事もあるらしい。病気の時がそうかもしれない。延命治療は果たしてどうなんだろう・・・。この本を読んで「死」についてちょっと考えた。死ぬ間際って「何にでも感謝できてしまうんだろうなぁ・・・」「何でも許せちゃうのだろうなぁ・・・」「生きているしがらみが懐かしく思えるのかもしれないなぁ・・・」「きっと嫌いな人も許せるのだろうな」たぶん感じる次元が変わってしまうのだろうなぁ・・・。と思うと、生きる事に執着してしまっている現世のありのままの姿のこの世が理解できるのかも。生きている世界の人の思う事、それはその人間の文化です。「清志朗」が亡くなってしまったけど、死ねて楽になったと思うのです。現世の病気の時は辛かっただろうからね。死ねて「オメデトウ」かもしれません。この世に置き去りにされた気分になるのはわかるけど、本を読んで思ったよ。「いずれ、私もそちらに行きます」それがその人への「お悔やみ」なんじゃないかな・・・って。残された者の辛い現世を引きづるよりも、「いづれは私もそちらの世界の人になるのだから、貴方も見守って待っていて、現世も素晴らしい世界なのかも知れないことを死者から教わったような気もするから、現世でも光りながら生きるよ」ってそれが弔いの言葉のような気もするし、現世に生きる私達のよりよく生きる術のような気もしたし、実際、現世も素晴らしい世界になるとも思う。神は一つ。自分の心の中に居る。ただ、個人、文化が違うから、皆、神様の概念が違っているのは当たり前だよね。皆の心の中に一つ、綺麗でキラキラしている信じる神様が居ればいいのじゃないかな。死ぬときに会いたい人がいればそれで大丈夫だと思うんだなぁ・・・と。その本を読んで、思った。