3月29日日

いいお天気が続きました。今日はほっと一息雨ですが、もう暖かいです。
お天気がいいので散歩に「利晶の杜」へブラブラと再び行ってみました。

堺の旧町と仕切っている高速道路と公園。
そこの桜が緑の葉が出て白色の桜で上品。ひときわ目をひきました。
私の今住む借家は、町の外と云われる農民や庶民の住む町側に家があります。


「利晶の杜」の反対側に昔からある「利休屋敷跡」があります。
昔は鉄線が張られ入れませんでしたが、今は名所となり、解放され
ボランティアの方がついて、管理してくださっており、
説明も丁寧にしてくれました。
この土地はフクスケ(株)地元企業の社長が買取っていた土地で、
昔は2畳台目の茶室があったようですが、
京都の精華大学のゲストハウスに移築したそうです。
井戸はそのままずっと昔から残っていました。
堺は昔は、金剛山水系が豊かで、水も豊富で水質がよかったので、
酒会社もたくさんあったようです。
近くの「天下茶屋」の土地も秀吉がふらりと寄った茶屋で御茶を飲まれて、
たいそう美味しいとおほめをもらい、
そこから、「天下茶屋」の名がついたとも云われるほど、
この辺りの水は綺麗だったのです。金剛山水系のおかげです。
今はこの辺りでは、開口神社やらにまだその名残があるそうです。
今では、この一帯は工業地帯と化していますが・・・


↑屋敷に残る、利休が生まれた時の産湯をここから汲んだという「椿の井戸」
利休が秀吉から切腹を賜った原因の所説の中に、
大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため
(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた)」
からというものがある。
この井戸の上の屋根の部分は利休が大徳寺金毛閣の修復に尽力した時の廃材が
使われているかもしれないという話がある。
昭和時代に新たに金毛閣が改築された際にその廃材を利用して、
この井戸の屋根の部分の木材として利用されたらしい。
故に、この井戸は利休の産湯でもあり、
切腹の原因ともなった金毛閣の木像を安置した寺とも深い縁があるようだ。
なんとも・・・・その数奇な人生を映している井戸とも思うと感慨深い。
いろいろと感じながら、
春の陽気の堺の町を想像しながら散歩をしたひと日であった。