6月30日木

昨日は堺から実家奈良へ
道の途中「野中寺」(やちゅうじ)があり、
法隆寺と関係の深いお寺だったので気になってやっと寄りました。
銅造弥勒菩薩半跏思惟像の重要文化財があるそうです。
創建は650年頃と古く、
船の荷を司る役目を持った百済系の祖先だそうです。
海が近い羽曳野らしい役目の寺で日本の創始時代が思い浮かびます。

境内には早くもさわやかな銀杏の青い実が滴るようになっていました。

野中寺。仁王様も小さく赤く 赤鬼の雰囲気、
行基の家原寺の仁王様もこんな小ぶりな感じでした、
当時、大阪の辺りの仁王様はこんな形がポピュラーだったのですね。

石棺は7c頃のもので最寄りの古墳から出土のものを仮置きしているようです。
やはり、この辺りは古墳が犇めいている土地柄なようです。

近く高井田付近の古墳から出て来た壁画。
大和川を船で行き交う様子が描かれている。
いずれも7c頃で神世の昔から文明が発達していたようだ。
着るものも土偶めいた膨らみのあるズボンに帽子が粋だ・・・


野中寺の墓地には「お染久松の墓」がある
1700年代に「曽根崎心中」が流行ったそうです。その後
社会的に心中が流行り、この豪商の娘も世間に漏れず・・・
この墓は 油屋、天王寺屋の娘と寺の次男坊の丁稚奉公に来た男との恋が
実らず心中をしてしまった二人を祀ったものでした。
豪商で野中寺に寄進し守ってきた末裔が菩提寺を建てたそうです。
かなり立派なお墓でした。
大阪の歴史もとても面白く・・・現在に至り・・・
家の海の近くの「湊」駅の付近には菅原道真が流刑になる際に
お参りをした、堺市西湊町にある「船待神社」があります。
901年(昌泰4年)菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中 
道明寺にいる伯母に別れを告げた帰途 船を待つ間 
菅原氏の祖神を祀る当社に参拝し、 松の木を植え出発したと伝わっています。、
歴史が現(うつつ)に感じられる環境に住んでいると
そしてデジャブに陥りそうな気持になるこの土地堺です。